2017年12月17日日曜日

取らぬ狸の・・・・・・


私がハロワで最初に受けた会社は、財団法人だか社団法人だったか、ともかくその手の企業だった。

「うん、これなら何となく公共性が高そうで、安定してそう。それに、こういう所はお上の目が厳しいだろうから、年齢的なハードルも低そうだし」

ってなことで、無い「レックス知恵」を絞って狙いを定めたのだが、やはり人間、考えることは皆同じ。
 

「ここはきっと応募者が多かったのよ」

見事に書類審査で落とされた私は、あっさり方向転換を試みた。元々こだわりのないことにかけては、自信がある。

 


「やっぱり、小さな会社だよね。でもって、ある程度年齢の高い女の人も働いてそうな所」


 自分ながら、グッドアイデアである。

しかし、ハロワの求人票を見ただけでは、企業の規模までは予想がついても、中々従業員の年齢層までは分からないというのが、正直なところである。

 

それでも一つ、これは、というのを見つけ出した。

それは、私の最寄駅からJRで2駅ほど行った所にある造園関係の会社で、コールセンターのパートを募集していると言う。

「コールセンターだったら顔を出さないし、一緒に働いている人達も女の人ばかりだから、”若い女の子の方が社員の士気が上がる!” なんてことを言いだす人もいなそうよね。これならいいかも」

 

紹介状をもらうため、いそいそとハロワの受付に出向くと、優しそうな係員の女性が、

「採用されるといいですね!」

と微笑んでくれた。私はすっかりいい気分になり、

「これは、幸先いいかも」

と、もう受かったような気分になってしまったのだった。

 

面接は、なんてことなくあっさりと終了した。駅からも近く、帰る道々、途中にあるカフェに目を止めて、

「このカフェはちょっといいなぁ。ここで働くことになったら、A子を昼休みに呼び出して、ここで食事なんていいかもね」

な~んて、その町に住む友人の顔を思い浮かべたりなんかしちゃっていたのである。

 

「これからのご活躍をお祈りしています」メールが届いたのは、それから3日後だったのさ。

2017年12月8日金曜日

母の仁徳!?


ほとんど動けなくなってしまった母を前にして、途方に暮れてしまったレックス、しかし何か行動を起こさなければ、事態は何も変わらない。ともかく、地域包括センターに電話してみたのだが、やはり介護認定や援助等は、母の状態が確定していないとできないと言われてしまった。

 

「やっぱり最初は医者か。でも、どこに!?」

 

とりあえず母が以前かかりつけにしていた近所のクリニックの先生に電話してみた。この先生というのが・・・・・。

 

とても良い先生なのだが、診察室から出てくる姿を見ると、

「どっちが患者さん!?」

と聞きたくなるほどご高齢で。もしかして、先生の方が要介護!? なんて不謹慎な冗談も思わず脳裏に浮かんだりして。

 

とは言え、背に腹は代えられない。

 

先生に母の状態を話し、病院の紹介状を書いていただいた。先生は快く某総合病院に紹介状を書いてくださったのだが。

 

この総合病院と言うのが、その少し前に移転して、新しいピカピカの病院になったばかりで。それはそれでいいことなのだが。


これがまた、めちゃくちゃアクセス不便な所にあるのだ。今はバス便も整備されたようだが、母を連れて行った当時は車で行くしか手段がないような場所だった。免許のない昔人間レックスにとってはまさしく鬼門。やはり、病院と言うとある程度広い敷地を必要とするので、新しく作るとなると、どうしても郊外になってしまうのだろう。


とは言え、背に腹は代えられない。甥っ子に頼んでやっとの思いで連れて行ったのだった。

 

ところが、である。やっとの思いで連れて行ったのに、いざ受診となったら、

「え!? 歩けない!? 整形か。今日は整形ダメなんですよ、手術入っているから。内科の受診だと思ったからね」

である。おーまいがーっ!!

 

再び歩けない母を連れ出し、以前に一度かかったことがある整形クリニックへと向かったのだった。

 

そこで告げられたのが、「右大腿部の骨折」だった。なぜ!? どうして!? 転んだ覚えなど無いのに。うろたえる私に、医師は、

「昨日、今日の骨折じゃないね。ずいぶん前にやってるはず。高齢者は時々こういうことがあるんだよね。痛みに鈍感というか、その場では気がつかなくて、後で症状が出るんだよ。今となっては、いつのものか分からないな・・・・・」

 

頭を抱える私をよそに、母は、

「先生は以前、何でもないとおっしゃいました!」

いや、それ、もう1年も前の話だから。頼むから、先生にケンカうるのやめようね。ったく、子の心親知らずである。

 

「このままだと確実に寝たきりになるよ。ともかく、病院に紹介状を書いてあげるから。○○病院と△△病院、どちらにする?」

 

怒涛の展開に、もはや私の頭は爆発寸前だった。つい、1週間前までは、このような事態になるとは想像もつかなかった。

 

とりあえずその日は「ちょっと考えてみます」と言って母を連れ帰った。まったく、長い一日だった。

 

結局、レックス家からも姉の家からも近い病院にしたのだが、これが大正解だったのである。しかし、いきなり「どっちにする!?」と聞かれても、その場で適切な判断をするのは中々に難しい。やはり、日頃から医療情報には気を配っておくべきだな、と実感した。

 

なお、最初に行った某総合病院だが、実はあまり評判が芳しくないことを、後日知った。もしあの時に手術が入っていなかったら、あそこに入院になっていたのだろうか、と考えると、人間「運・不運」と言うか、間が悪い、良いというのは、確かにあるのかもしれない、としみじみ感じ入ったのである。

2017年12月4日月曜日

そうだ、ハローワークに行こう!


私が真っ先に向かった先は、あの「若葉マーク失業者の強い味方」ハローワークだった。まずは求人一覧から目を通したのだが、何しろ就活自体が20数年ぶりである。すっかりやり方を忘れているし、20数年前とは世の中もだいぶ変化している。履歴書の書き方すら、うろ覚えだ。

 

とりあえず求人一覧に目を通して見る。

「おお~、けっこうたくさんあるじゃないの!」

というのが第一印象だった。

 

今のハロワでは、基本的に年齢制限は「表向き(ここ大事)」廃止されている。だから、50代後半の私でも、「表向き(ここ大事)」ウエルカムしている企業がそれなりにあるのだ。

 

ただし、私の条件に合う所を見つけるのは、中々に大変だった。9時5時のフルタイムか、さもなくば週2日とか週3日午前中だけ、といった極端な案件が多い。まったく、帯に短したすきに長し、である。

 

その中から私の条件に合い、なおかつ安定していて働きやすそうな所を物色し、いそいそと紹介状をもらいに行ったのだった。

 

ちなみに、今のハロワの相談員の方々は、皆さんとても愛想が良い。以前はけっこうこわもてな方もいたのだが、雰囲気もすっかり明るくなり、以前とは様変わりしている。
そんな雰囲気に励まされ、すっかりやる気になった私は、家に帰るなり履歴書を作成すると、お目当ての企業へ出したのだった。昨今はパートといえども、書類審査を課す所が多いのだ。そんな所も昔とは違っている。



 


しかし、年齢に自信のない私としては、その方が安心だった。いきなり面接の電話をして、電話口で冷たい対応をされたら、小心者のこのレックス、すっかり意気消沈してしまって前へ進めなくなってしまう。あらかじめ履歴書を送っておけば、面接でいきなり「何で来た」みたいな対応をされる心配もないだろう。

 

そしてその数日後、私の元に届いたのは「これからのご活躍をお祈りしております」という暖かい言葉と共に、冷たく突き返された履歴書だった。

 

でも、この後同じ文面にイヤと言うほどお目にかかるとは、この時は考えていなかったよ・・・・・

2017年12月3日日曜日

高齢者だって、認知症だって、外でお食事したいのだ~!


昨日は施設に入所している母を、外食に連れ出した。ちなみに、前回の相談会での母の希望が、

「外で食事がしたい」

だったもので。もっとたびたびどこかへ連れて行ってあげたいけれど、やっぱり母を連れ出すのはけっこう大変で。

 

母は一応、補助カーを使えば、室内だったら少しは歩くことが出来る。しかし、「昔人間レックス」な私は、車の免許がない。そこでどんなに近い距離でも、一々タクシーを頼まなければならない。この頃はタクシーの運転手さん達も、高齢者に対して理解のある方が増えた。なので、以前よりずっと楽にはなったけれど、それでも車の乗り降り、補助カーの積み下ろし等には神経を使う。何しろ、今度転んだら、寝たきり確定だ。そうなったら、認知の方も一気に進む。小心なレックスは、つい、外出に二の足を踏んでしまうのだ。

 

そんなこんなのすったもんだの末、近所のファミレスに落ち着いたのだが、もはや母は自分ではメニューを選べない。

「○○が食べたい」

ということは言えず、

「お母さん、分かんない。レックスちゃん決めて」

こんな場面でも認知症の進みを意識させられる。結局消化のよさそうな鍋焼きうどんにした。

 

実は、レックス家は私と母が食いしん坊、姉が小食という構図になっている。なお、早死にした父は糖尿病だったため、小食を強いられていた。子供の頃、母があまりにたくさんご飯を食べるので、よく姉と二人でぽかんと眺めていたものだ。だいたい茶碗に3杯ぐらい食べてましたよ、あの方は。

そんな母の血を一人だけしっかり受け継いだ私も、夜、眠りに入る前のベッドの中で、「明日の夕飯は何にするかな?!」などと考えているのさ(時々それで腹がすいて眠れなくなる・・・・・)。ま、それはともかく。

母は自分の気に入った食べ物を前にすると、目がキラリと光を帯びるのだった。

 

今回も、出かけるまでは、

「お母さん、(食べるのは)少しでいいから。何だかゲップが出るから」

と言っていたのが、いざ鍋焼きうどんを前にしたとたん、しゃんとなった。しっかり食べる姿を見て、安心した。

 

食欲は生命欲、食べる意欲があるうちは、まだまだ元気な証拠である。

しかし、食後に母をトイレに連れて行ったら、世話を焼く私に対して、

「すみません、お世話かけます」

・・・・・・・・・

まるで赤の他人に対するような物言いに、目が点になった。

 

思うに、普段母はお世話して下さる介護士さん達に、そう言っているのだろう。そのいつもの癖がするりと出たのだ。ちなみに、母の病気であるアルツハイマーの特徴の一つとして、「外面が良くなる」というのがある。

 

それにしても、私と来たことは理解していたはずなのに、とここでも病気の進みを意識させられ、切なくなった。

 

ところで、このファミレス、トイレがバリアフリーではなかった。今の時代、これはないだろう。車いすでも安心して使えるトイレを、1つは用意してもらいたいものだ。レストラン側にもいろいろ事情はあるのだろうが、手すり一つないというのは、いただけない。

 

もし、これをご覧の飲食店関係者の方がいらしたら、今一度トイレの状態を振り返っていただきたい。そしてもし手すり等が無かったら、ぜひとも手すりの設置ぐらいは検討してもらいたいと願うレックスなのである。

2017年12月2日土曜日

突きつけられた現実


ある日突然、「足が変」になってしまったレックス母は、その3日後には全く歩けなくなってしまった。その時の私の反応は・・・・・

 

「もう~、何をどうしていいのか分かんな~い!!」

 

今なら多少の知識はあるが、当時、私の介護認識・知識はほとんどゾウリ虫レベル転んで、とか持病が悪化して、というのならまだしも、それまでほとんど何もなかったのだ。一体何科の医院に連れて行ったらいいものかも分からない。

 

それでも仕事には行かねばならない。母を一人家に残していくのは非常に不安だったが、ともかく食べ物とポータブル・トイレ(祖母が使用したものが家にあったので)を母の傍らに残し、出社したのだった。

 

で、その夜は飛んで家に帰った・・・・・かと言えば、答えはノーだった。どうにも家に帰って、その現状を目の当たりにするのが怖かった。

残業が終わって家路をたどりながら、私はわざとノロノロと時間を稼いでいたのである。

 

思うに、現実と向き合うことから逃げていたのだろう。現実と向き合う覚悟ができていなかったのだ。逃げていれば、そのうち現実の方が変わってくれる、とでも考えていたのだろうか。

 

やっと家にたどり着き、玄関を開け、家に入るなり私の目に飛び込んできたのは、畳みの上に四つん這いになった母の姿だった。あわてて駆け寄ると、母は私の顔を見るなり、

「レックスちゃん?! 良かった、帰って来て」

と言った。少しろれつが回らず、何かうつろな様子で私を見上げている。しかし、

「どうしてもっと早く帰って来てくれないの!?」

と言った私を責めるような様子はみじんも見えなかった。

 

胸をグサリと突かれた。自分の家の状況を見ることへの恐怖から時間稼ぎをしたことを、死ぬほど後悔した。

 

何とか母を布団まで連れて行ったが、これからどうやってこの状況を打開したら良いのか、見当もつかなったのである。

 

私の頭の中を真っ白いものがひたすらグルグルと回っていた。

2017年11月30日木曜日

レックス的就活計画


就活第一歩の面接で撃沈したレックス、無い知恵を絞り今後の対策を(一応)練ってみることにした。

 

私がまず試みたのは、自分の応募条件をハッキリとさせることだった。

 

だって、書いてあったのだ、どこぞに。

 

「何のために働くのか、何がやりたいのか、どのような環境で働きたいのか、まずは自分の目的や希望を明確にしましょう。それが、就活を成功させる第一歩です!」

 

第一歩だよ、第一歩! 最初が肝心というではないか。

 

ま、どこで見たのかは忘れたけど。とりあえず、それを忠実に実行したのである。そして、そんな私の目的と希望とは。

 

何はともあれ、場所は地元。もう、ラッシュの電車で揺られるのは、無理。勤務日数は週3日から4日。時間は10時から4時なんて、とっても良いね。時給は1,000円もらえたらなぁ、でもこの際う~んと譲って900円でも目をつむろう。仕事はやっぱり事務。あ、それと夜働くのはお断り。やっぱり年寄りは早く寝ないといかんからの~、フォッフォッフォ! あんまり人数が多い所でもイヤだけど、少なすぎるのも困るなぁ。同じパートの人が何人か居てくれないとね。正社員ばっかりの所に1人は避けたい。あと女ばかりでも男ばかりでもイヤなんだな、これが。

 

世の中、なめてるってか。まあね~、確かに50代後半、特にこれと言ったスキルもキャリアも無いヤツが言うセリフではない・・・・かもしれない・・・・・

 

しかしね、私にも言い分はあるのだ。

 

やはり、この年でどのような理由にせよいったん現場の第一線から退いてしまうと、もはやフルタイムの仕事はどうにも気が重いのだ。体と心はすっかり「セミリタイア」モードに入ってしまう。

 

だったら在宅ワークはどうよ!? と考える向きもあるだろう、私も考えた。しかし、私のように中高年ど真ん中の一人暮らしだと、すっかり家に入りきってしまうのも、元々働かなかった脳みそがますます怠けそうで怖いのだ。

それに、在宅ワークを本格的にされている方ならうなずかれると思うが、在宅ワークは、側で見ているほど甘いものではない。むしろ、外で働くよりも高いスキルと自己管理能力を要求される。怠け者レックスにはハードルが高い代物なのだ。

 

事務というのもね、この年だと新しいことを今から覚えるのは、やはり至難の業。そこは20年以上やってきた仕事が無難というものだ。第一、この私に新しい仕事を一から教えるとなると、相手が二の足を踏むだろう。

 

とまあ、こんな具合に「レックス的就活計画」を立てた私だったが。

 

むろんこの後、次々に変更と譲歩を余儀なくされたのは、言うまでもなかった・・・・・
 
 
 

2017年11月27日月曜日

変化


私は、「変化」には2種類あると思っている。1つは、見た目にはほとんどそれと分からず、気がつかぬうちに少しずつその姿を変えていくものと、あと1つはある日、ある時を境に、ガラリとその様相を違えてしまうものと。

 

私の介護生活は、その両方だった。おそらく、私の知らないところで母の変化は刻々と進んでいたのだろう。確かに段々家事が出来なくなるとか、私が会社から帰ってもボンヤリとテレビを見ているだけとか、「これまでとは違う何か」は起こりつつあった。

 

しかし、私はそれを全て「年のせい」ということで片づけていた。あまりと言うか全然と言うか、全く深刻にはとらえていなかったのである。

 

 

その日は突然やってきた。

いつものような平穏無事な一日も終わりに近づき、私と母は夕食のテーブルを囲んでいた。いつもながらの質素な夕食を、いつものようにああだこうだとたわいもない話をしながらモコモコと食べ、そしていつものように母は自分の食べ終わった食器をシンクまで運ぼうとした。すると、

「お母さん、足が変。歩けない」

とつぶやいたのである。

「どう変なの?」

と聞いても、

「何か、変。歩けない」

と言うばかり。私は、

「年だから自分で気づかぬうちにどこかにぶつけたか何かして、痛いのかもしれない」

と、さほど気にしていなかった。特にケガをしたような様子もなければ、転んだということもない。明日になれば治るだろう。

「いいよ、そこへ置いといて。私が片づけるから」

 

ところが、その日から3日とたたないうちに、母は1歩も歩けなくなってしまったのである。

 
 

高齢者の介護は、ある日いきなり始まることが、おうおうにしてある。赤ちゃんが、ある日突然立ち上がるように、高齢者はある日突然歩けなくなってしまうのだ。
その日の夕食が終わるまで、母には全くいつもと違った様子は見られなかった。それが、あの日あの時を境に、母は被介護者になってしまったのだ。そして、有無を言わさずに、私の介護生活の幕が切って落とされたのである。

 


おそらく、あの夕食後の光景を、私は一生忘れることはないだろう。

2017年11月26日日曜日

最初の一歩


さて、無事母を特養に入所させ、いよいよ社会復帰へと足を踏み出したレックスだったが。

 

 

最初に受けたのは、市の女性相談センターの嘱託相談員だった。私は大学の通信制で心理学の勉強をしたことがあった。別に何か目的があって勉強したわけではない。単なる趣味の一環のつもりだったが、やはりその手の分野に興味はあった。

 

そんなわけで、大した資格じゃないが、一応心理学の資格を一つ持っていたし、産業カウンセラーの講座を受講して試験にも合格していた。ただし、産業カウンセラーの資格は協会に入会しないともらえないので、あくまで試験合格のみだが。(入会するには金がいるので・・・・。貧乏&ケチなレックスはご辞退しました) 

 
そこで目にしたのが、この仕事の募集だったのである。

 

 

いくら私がおめでたいとは言え、自分の持っているものがきわめてお粗末な資格&知識ではあることは理解していた。心理の世界をかじった端くれとして、こんな入口程度の経験では相談員は難しいだろうなぁ、という認識はあったのだ。

 しかし、そこは根がノー天気な私、

「ま、ダメもとでやってみっか」

とレポートを出したところ、面接までは進めたのだが、案の定面接で撃沈。
 

 

しかし、これはおそらく私の年齢うんぬんというより、その力量がお粗末であったことに尽きるだろう。
 
もうね、ひどいもんでしたよ、面接。メロメロのレロレロ。
「これは落ちたな」
と瞬時に理解しました。

 

心理の世界というのは、中々に奥が深い。臨床心理士の資格を取ったところで、いっぱしのカウンセリングができるまでには何年もかかる。それでもやはり、魅力を感じてしまうのだよね、この分野に。

 

ただし、私、実は産業カウンセラーの講座を受講していた時、周りの受講生や先生たちが苦手だった。いや、皆さんいい人だったんですけどね。それこそ、この私なんぞよりもよっぽどいい人が多かった。


しかし、何と言うのだろう、カウンセラーになりたがる人というのは、独特の匂いを持っている。あくまで私の個人的な感想だが。それがどうも苦手なのだ。

もっとも、そういう私が心理学を勉強したというのも、理屈に合わないのだが。



何はともあれ、就活の第一歩は納得の撃沈ではあったのだった。
 
けど、まさかそれから40社以上落とされるとは、この時は考えていなかったよ・・・・・・