2017年11月30日木曜日

レックス的就活計画


就活第一歩の面接で撃沈したレックス、無い知恵を絞り今後の対策を(一応)練ってみることにした。

 

私がまず試みたのは、自分の応募条件をハッキリとさせることだった。

 

だって、書いてあったのだ、どこぞに。

 

「何のために働くのか、何がやりたいのか、どのような環境で働きたいのか、まずは自分の目的や希望を明確にしましょう。それが、就活を成功させる第一歩です!」

 

第一歩だよ、第一歩! 最初が肝心というではないか。

 

ま、どこで見たのかは忘れたけど。とりあえず、それを忠実に実行したのである。そして、そんな私の目的と希望とは。

 

何はともあれ、場所は地元。もう、ラッシュの電車で揺られるのは、無理。勤務日数は週3日から4日。時間は10時から4時なんて、とっても良いね。時給は1,000円もらえたらなぁ、でもこの際う~んと譲って900円でも目をつむろう。仕事はやっぱり事務。あ、それと夜働くのはお断り。やっぱり年寄りは早く寝ないといかんからの~、フォッフォッフォ! あんまり人数が多い所でもイヤだけど、少なすぎるのも困るなぁ。同じパートの人が何人か居てくれないとね。正社員ばっかりの所に1人は避けたい。あと女ばかりでも男ばかりでもイヤなんだな、これが。

 

世の中、なめてるってか。まあね~、確かに50代後半、特にこれと言ったスキルもキャリアも無いヤツが言うセリフではない・・・・かもしれない・・・・・

 

しかしね、私にも言い分はあるのだ。

 

やはり、この年でどのような理由にせよいったん現場の第一線から退いてしまうと、もはやフルタイムの仕事はどうにも気が重いのだ。体と心はすっかり「セミリタイア」モードに入ってしまう。

 

だったら在宅ワークはどうよ!? と考える向きもあるだろう、私も考えた。しかし、私のように中高年ど真ん中の一人暮らしだと、すっかり家に入りきってしまうのも、元々働かなかった脳みそがますます怠けそうで怖いのだ。

それに、在宅ワークを本格的にされている方ならうなずかれると思うが、在宅ワークは、側で見ているほど甘いものではない。むしろ、外で働くよりも高いスキルと自己管理能力を要求される。怠け者レックスにはハードルが高い代物なのだ。

 

事務というのもね、この年だと新しいことを今から覚えるのは、やはり至難の業。そこは20年以上やってきた仕事が無難というものだ。第一、この私に新しい仕事を一から教えるとなると、相手が二の足を踏むだろう。

 

とまあ、こんな具合に「レックス的就活計画」を立てた私だったが。

 

むろんこの後、次々に変更と譲歩を余儀なくされたのは、言うまでもなかった・・・・・
 
 
 

2017年11月27日月曜日

変化


私は、「変化」には2種類あると思っている。1つは、見た目にはほとんどそれと分からず、気がつかぬうちに少しずつその姿を変えていくものと、あと1つはある日、ある時を境に、ガラリとその様相を違えてしまうものと。

 

私の介護生活は、その両方だった。おそらく、私の知らないところで母の変化は刻々と進んでいたのだろう。確かに段々家事が出来なくなるとか、私が会社から帰ってもボンヤリとテレビを見ているだけとか、「これまでとは違う何か」は起こりつつあった。

 

しかし、私はそれを全て「年のせい」ということで片づけていた。あまりと言うか全然と言うか、全く深刻にはとらえていなかったのである。

 

 

その日は突然やってきた。

いつものような平穏無事な一日も終わりに近づき、私と母は夕食のテーブルを囲んでいた。いつもながらの質素な夕食を、いつものようにああだこうだとたわいもない話をしながらモコモコと食べ、そしていつものように母は自分の食べ終わった食器をシンクまで運ぼうとした。すると、

「お母さん、足が変。歩けない」

とつぶやいたのである。

「どう変なの?」

と聞いても、

「何か、変。歩けない」

と言うばかり。私は、

「年だから自分で気づかぬうちにどこかにぶつけたか何かして、痛いのかもしれない」

と、さほど気にしていなかった。特にケガをしたような様子もなければ、転んだということもない。明日になれば治るだろう。

「いいよ、そこへ置いといて。私が片づけるから」

 

ところが、その日から3日とたたないうちに、母は1歩も歩けなくなってしまったのである。

 
 

高齢者の介護は、ある日いきなり始まることが、おうおうにしてある。赤ちゃんが、ある日突然立ち上がるように、高齢者はある日突然歩けなくなってしまうのだ。
その日の夕食が終わるまで、母には全くいつもと違った様子は見られなかった。それが、あの日あの時を境に、母は被介護者になってしまったのだ。そして、有無を言わさずに、私の介護生活の幕が切って落とされたのである。

 


おそらく、あの夕食後の光景を、私は一生忘れることはないだろう。

2017年11月26日日曜日

最初の一歩


さて、無事母を特養に入所させ、いよいよ社会復帰へと足を踏み出したレックスだったが。

 

 

最初に受けたのは、市の女性相談センターの嘱託相談員だった。私は大学の通信制で心理学の勉強をしたことがあった。別に何か目的があって勉強したわけではない。単なる趣味の一環のつもりだったが、やはりその手の分野に興味はあった。

 

そんなわけで、大した資格じゃないが、一応心理学の資格を一つ持っていたし、産業カウンセラーの講座を受講して試験にも合格していた。ただし、産業カウンセラーの資格は協会に入会しないともらえないので、あくまで試験合格のみだが。(入会するには金がいるので・・・・。貧乏&ケチなレックスはご辞退しました) 

 
そこで目にしたのが、この仕事の募集だったのである。

 

 

いくら私がおめでたいとは言え、自分の持っているものがきわめてお粗末な資格&知識ではあることは理解していた。心理の世界をかじった端くれとして、こんな入口程度の経験では相談員は難しいだろうなぁ、という認識はあったのだ。

 しかし、そこは根がノー天気な私、

「ま、ダメもとでやってみっか」

とレポートを出したところ、面接までは進めたのだが、案の定面接で撃沈。
 

 

しかし、これはおそらく私の年齢うんぬんというより、その力量がお粗末であったことに尽きるだろう。
 
もうね、ひどいもんでしたよ、面接。メロメロのレロレロ。
「これは落ちたな」
と瞬時に理解しました。

 

心理の世界というのは、中々に奥が深い。臨床心理士の資格を取ったところで、いっぱしのカウンセリングができるまでには何年もかかる。それでもやはり、魅力を感じてしまうのだよね、この分野に。

 

ただし、私、実は産業カウンセラーの講座を受講していた時、周りの受講生や先生たちが苦手だった。いや、皆さんいい人だったんですけどね。それこそ、この私なんぞよりもよっぽどいい人が多かった。


しかし、何と言うのだろう、カウンセラーになりたがる人というのは、独特の匂いを持っている。あくまで私の個人的な感想だが。それがどうも苦手なのだ。

もっとも、そういう私が心理学を勉強したというのも、理屈に合わないのだが。



何はともあれ、就活の第一歩は納得の撃沈ではあったのだった。
 
けど、まさかそれから40社以上落とされるとは、この時は考えていなかったよ・・・・・・

2017年11月25日土曜日

仕事を探して三千里・・・・・


今年の4月からずっと就活をしている。

もうね、ボロボロですよ、ボロボロ。惨憺たるありさまで。

あの林真理子氏が「(大学新卒時に)40社ぐらい落とされた」とどこぞで話していたが、40社ではまだ、甘い。40+αぐらい落とされまくっている。

 

そりゃね、分かるんですよ。50代後半ともなれば、もう定年という名の棺桶に片足どころか1.5足ぐらいドップリ突っ込んでいる。記憶力も衰えているし、反射神経? 適応力? 一体何のお話かしら、状態だ。
 
年食っている分、面の皮は(おそらく、多分、きっと)厚くなっていることだろう。扱いにくいと思われても致し方ない。

 

しかし、こちらだって20年以上もそれなりに仕事をこなしてきたのである。大したスキルは持っていないが、ちょっとした事務仕事だったらその辺のお姉ちゃんよりも使えるはずだ・・・というのは、こちらの勝手な思い込み、なのだろう。

 

正社員などもちろん望んでいない、はなからパート希望だ。それも、受付やアシスタントなどという文字はことごとく避けて通っている。
 
それなりに身の程はわきまえているつもりなのだが・・・・・

 

それでもやっぱり落とされる40+αと言ったけれど、これは全て面接をした会社というわけではない。
 
仕事探しサイトでポチしただけのものも含まれているし、履歴書を送ってお祈りされてしまった所もたくさんある。と言うより、そちらの方が多いだろう。


やっと面接にこぎつけても、そこでやっぱり落とされる。

私に問題があるのか、それともトシが全てなのか。

 
 
ま、おそらく両方だな。

 

何だかもう、人間性を根こそぎ否定されたようで、本当に落ち込む。受かる気がしない。

 
 
しかし、ずっとこうしているわけにもいかず、今日も私はPCのお仕事サイトとにらめっこなのさ。

2017年11月24日金曜日

崩壊の足音


帰宅すれば、やれスカイプだ、インターネットだ、DVDだと、わが世の春を謳歌していたアホ娘も、もはや中年の域に達し。玄関を開ければ夕食の香りが鼻孔をくすぐる、という桃源郷が少しずつ崩れ出して行った・・・・・

 

「ただいま!」

戸を開けると、母はこたつの中から半身を乗り出し、一言、

「お帰り・・・・・」

見ると、時計はゆうに8時を回っていると言うのに、キッチンに火は無く寒々としている。
 
え!? まだ夕飯の支度、全然やってなかったの!? と切れる中年女一人。

 

最初のうちはヒステリーを起こしていた私だったが、段々あきらめから悟りに変わり、

「もう、お母さんも年なんだよ。いいかげん、バトンタッチしないとな」

という状況へと向かって行った。

 

それでもまだ当時は私が帰宅してから二人一緒にキッチンに立ち、夕食を作っていた。また、料理はしないまでも、食後の後片付けは母が引き受けてくれていたのだ。

「いいよ、いいよ、お母さんが片づけるから」

そんな言葉に甘えて、相も変わらずアホ娘はいそいそとDVDだ、インターネットだ、スカイプだと・・・・・。

 

段々と、掃除・洗濯と私がしなければならない家事が増えて行ったが、それも、

「まあ、仕方ない、年なんだから。私だって、いいかげんパラサイトは卒業しないと。他の結婚している友人たちはずっと前からこうして一家を切り盛りしているわけだしね」

と考えていた。

 

そう、まだまだ余裕があったし、まさかその後の「地獄(?)の介護生活」は想像だにしていなかったのである。それが・・・・・・。

 

いい年こくまで平然と親に世話をしてもらっていたバチが当たったのかも、少しそんな気もしているレックスだった。

2017年11月23日木曜日

タイトルの由来


このタイトルをご覧になればお分かりいただけると思うのだが、私は生粋の怠け者だ。



今を去ることはるか昔の小学生時代、夏休みの宿題を仕上げるのは、常に8月31日の夜、と相場が決まっていた。学年が上がるほど、比例するように仕上がり時刻も延びて行ったのは、言うまでもない。



そんな私だったから、大学を卒業し曲がりなりにも晴れて社会人となった暁には、パラサイトシングル(死語)の道を順調に歩み出して行ったのである。帰宅すれば「食う、入る(風呂に)、寝る」という生活。家事なんて、まともにやったためしもなかった。
30過ぎまで母親の作ってくれるお弁当を携えて、意気揚々と出勤していたものだ。ドヤ顔で言える話ではないが。



順調なパラサイト生活が少しずつ狂い出したのは、私が40代になった頃からだったろう。まず、母手作りのお弁当がコンビニ弁当に代り、朝は独りで起きて、朝ごはんと身支度を済ませるようになり、そのうちに帰宅しても夕食が用意されていないことがたび重なるようになっていった。

あの頃はそんな生活の変化に心がついて行かなくて、母とケンカばかりしていた。

今、考えると笑ってしまうけどね。いい年をした娘が、
「もう、8時なのに、なんで夕飯がまだなの!?」
なんて。今だから言える暗い過去、である。



あれは多分、生活の変化もさることながら、「母の老い」と向き合うことへの拒絶反応だったのではないだろうか。


家事がキライで怠け者、こんな私が介護をする身となるなんて、あの頃は想像もつかなかった。

まったく、人生というものは分からないものだ。
もっとも、だから面白いのかもしれないが。

2017年11月21日火曜日

はじめまして


初めまして、レックスです。

 
50代後半、シングル、就活中です。

4年ほど前にそれまで20年ほど勤めていた会社を介護離職しました。

その後、「介護」と言う名の引きこもり生活を長らく続けておりましたが、被介護者も無事に(?)施設入所しまして。

 
それじゃ~、てんで仕事を再開しようと「熟年就活生活」を始めましたところが。

これがもう、あなた、ボロボロのヘロヘロ。

 
 
決まらない、ことごとく落とされる、もう、採用される気がしない。

最近は「もう、これはセミリタイアだよね!?」と。

ええ、もちろんヤケです。

 

でもね、私みたいな方、多いと思うんですよ、このご時世。

そこで、このボロボロのヘロヘロの就活ライフや介護の様子を、ブログにしようと思い立ちました。

 
「こんなふうになっちゃダメ!」

と悪い見本にするもよし、

「アホちゃう?!」

と笑うもよし、適当に参考にしていただくもよし。

 

ま、一番の目的は言いたいことを言うことですけど。

いわば、よくあるガス抜きってやつですね。

 

そんなわけで、これからよろしくお願いします。

 

ちなみに、夢はマーク・ボランとフレディ・マーキュリーの墓参りです。