2019年4月30日火曜日

頼りない喪主でごめんよ


 
 
 
葬式って、大変・・・・・・

 

これが以前からの私の実感。これに比べれば結婚式なんざ、楽勝である(って、やったことないけど)。

結婚式と葬式の違いとは、一つには「楽しいこと・嬉しいこと」と「楽しくも無いこと・嬉しいわけないだろ、タコ(ただし、まれに嬉しい場合もアリ?! かも)」がある。そして最も大きな違い、それは「前もって準備しておけること」と「いつ来るのか、予測が難しいこと」だ。

 

確かに「そろそろヤバいな」ということはあるだろう。しかし、人の死期をはっきり悟るなんて、普通の人間にはできっこない。かく言う私も、

「そろそろ母の不測の事態に備えて、葬儀社で話を聞いてみなくちゃ」

 と思いつつ、何もしていなかった。

 

だって、イヤじゃん、そんなことをしたら母の死ぬのを待っているようで。もし、本当にもしも万が一何かあったら、

「あんなことしたからかな・・・・・」

 とまあ、思いたくなくとも思ってしまうよね。

 

その点、結婚式場の下見とかなら、まだ全然結婚のめどがたっていないとしても、彼氏(彼女)と二人でまわってみる、なんて楽しいでしょ、想像するだけで。

「やっぱりあっちの方がいいよ!」

「いや、オレはこっちだな」

 なんて言い合って。

 

忌ごとはどうしても後回し、後回しになってしまうものなのだ。

 

しかも、段取りそのものは待ったなしで進めなければならない。昨今のこととて、母の葬儀は家族葬で、なるべくシンプルに行うことはかねてより姉と申し合わせができていた。私も介護離職して今は週3日勤務のパートの身だし、母の兄弟や親戚も亡くなったり、高齢だったりで、来られる人がほとんどいない。数少ない友人知人ともここ何年も音信不通だ(お互いに年だからね、外出もままならないじゃないすか)。

母はずっと専業主婦だったから、職場関係の人も皆無。

 

ま、これが私に大企業勤務の旦那でもいればまた話は別だが。

 

しかし、家族葬と決めてはいても、その中身となると全く五里霧中状態もいいところ、手探りでことを進めなければいけないのだ。

それでも何気に家族葬を扱っている葬儀社のチラシを何枚かキープしていた。これが大いに役に立った。結局その中の1社を選び、そこに病院から電話して、母を搬送してもらったのだ。

 

病院は死亡が確認されたら、それほど長く置いてはくれない。早急にどこかに遺体を搬送する必要がある(自宅でなくともいいんだけどね。とりあえずどこかに安置しないといけないわけ)。そのためにはどこに葬儀をお願いするのか、決める必要があるわけだ。病院もお願いすれば葬儀社を紹介してくれるが、やはりこちらで納得した所に頼みたい。特に、予算に限りがある場合は要注意だ(噂によると、病院で紹介してくれる所はわりとお高めな所が多い・・・・らしい・・・・)。

 

こんなことを言っても、はたして私が頼んだ葬儀社が良かったのか、それとも実際はイマイチだったのか、それは正直分からない。ただ、ただでさえ気が動転しているところにもってきて、決めなければいけないことをイヤでもバタバタと決めていく必要に迫られる(ちょっと日本語おかしいけど)、それが葬式だということだ。

 

今、葬儀等が終わり、ちょうど10連休中ということで、ひと息ついている。こんなにのんびりしていていいのかな、と不安になるほど、ゆっくりしちゃっている(何せ、怠け者レックスなので)。まだまだ決めなければならないことは山積みなんだけどね。さしあたっては49日が待っている。今回はこの10連休があって、助かったね。これでずいぶん違うよ、だって何もやる気が起きないんだもの。食事も本当にいいかげんで(でもしっかり食ってるので、痩せません、ハハハ)。

 

今回が私にとっては最初で最後の喪主体験。これからもこの家の後処理と菩提寺の施主という役目が待っている。まだまだ私の奮闘は続きそうだ。

 

がんばれ、レックス!
 
 
 
 
 

2019年4月23日火曜日

それは、あまりにいつもの母の寝顔、だった・・・・・


 
 
 
かなり更新があいてしまいました・・・・・・

その間、本当にいろいろありまして・・・・・・

 

今月の1日、母が2度目の入院をした。足のむくみがひどくなったのと、血中酸素濃度が低下したためだった。

 

それでも入院したばかりの頃は意識もはっきりしていたし、意思の疎通もある程度できていたのである。誤嚥の可能性やら何やらで、口から食物を摂取することは禁止されていたのだが、見舞いに行った私に、

「お母さん、おせんべいが食べたい」

 といったり、

「飴なめたい」

 とだだをこねて困らせたりしていた。私は、

「先生が食べてもいいと言ったら、持って来るからね。我慢してね」

 と言い含めていた。

 

それが、1週間、2週間と経つうちに、母は話ができなくなり、私や姉が行っても私たちだと認識できているのかどうか定かではなくなり、ついには目をあまり開けなくなってしまった。

去年の9月の入院時にも感じたが、その変化というか、衰退の激しさは、本当に呆然と見守るしかなかった。

 

それでも私の中では、

「もしかしたらまた回復するのではないか、奇跡が起こるのではないか」

 という思いがあって、

「胃瘻を考えた方がいいのかな。療養病院に移るように言われるかな」

 などなど、あれこれと考えを巡らせていたのだ。

 

 

それが・・・・・・・・

 

 

日曜の夜に病院から電話があり、今日の昼間、母の血圧がガクッと下がったと。今は安定しているが、どうも気になる、と。何だか、「胃瘻」を悩んでいた自分がバカみたいだった。もはや、母はそんな段階ではなかったのだ。それでも自分には、まだ母がすぐに逝ってしまうという認識がなかった。あまりになかった、全くなかった・・・・・・

すぐに病院へ行くことをしなかったのである。

 

次の日には仕事の後に病院に寄るつもりでいたし、火曜日は元々休日だったので昼から病院へ行くつもりだった。後から考えたら、どうしてあの電話があった時点で、すぐに病院へ駆けつけなかったのか、と。

 

 

月曜日の朝、仕事へ行く用意をしていたら、まだ病院から電話が入った。母の呼吸があやしい、と。すぐに来てくれと。その後のことはよく覚えていないのだが、姉に電話して、病院に行く準備をして、その時に、

「あの病院、バス便が少ないんだよな~、時間かかるな」

 と思ってから、

「バカだな、私。タクシー呼べばいいじゃん!」

 と。やっぱり普通じゃなかったんだな。

 

それで、あわてて病院へ駆けつけたのだが、私が到着する前に母は息を引き取っていた。まったく、このバカ娘は、親の死に目に会えなかったよ。最後の最後まで親不孝だったな。

 

結局ね、今だから言えるのだが、私は母が危ないと、危篤だと、認めたくなかったんだよね、きっと。それで、現実を受け入れるのがイヤで、母の状態を実際よりもずっと軽く見てしまっていたんだね。でも、後悔してももう遅い。

 

皆さんも気を付けてね。またまた元気になるなら、それはそれでいいこと。とりあえず病院から電話があったら、私のようにアホな怠慢はせず、すぐに駆けつけましょう。

私もどんなに後悔しても、後悔しきれない。

 

 

今はまだ、悲しみや寂しさはあまりわいてこない。実感がわかないというのが正直なところだ。
病院で見た母の死に顔は、本当によく見るいつもの寝顔だった。
「お母さん」
 と呼びかけたら今にも目を開きそうで、寝息まで聞こえてきそうだった。
 
特養の母の部屋に行ったら、車イス姿の母が今にも現れそうな気がして仕方がない。

 

 

これから葬儀や49日、初盆に彼岸、一周忌と、あわただしい日が続くだろう。こんな時に限って通信制大学始めちゃうしな~、このおばさんは。でも、しょうがないよね、こればっかりは。

 

私の中では、母はまだまだ、これから2年、3年と元気でいるはず・・・・だったのだ。

 

これで一応、私の介護生活は一区切りつくわけだが、まだまだ介護話も書かせていただきたいので、しばらくはこのまま、介護カテに居させてもらおうかな、と思っています。

 

 

ぐうたらで、いいかげんで、ずぼらで、うっかり者で、そんな私が喪主だよ・・・・困ったもんだね。

 

つつがなく母を無事に送れるといいのだけど。

今はそれだけを願っています。