2019年4月23日火曜日

それは、あまりにいつもの母の寝顔、だった・・・・・


 
 
 
かなり更新があいてしまいました・・・・・・

その間、本当にいろいろありまして・・・・・・

 

今月の1日、母が2度目の入院をした。足のむくみがひどくなったのと、血中酸素濃度が低下したためだった。

 

それでも入院したばかりの頃は意識もはっきりしていたし、意思の疎通もある程度できていたのである。誤嚥の可能性やら何やらで、口から食物を摂取することは禁止されていたのだが、見舞いに行った私に、

「お母さん、おせんべいが食べたい」

 といったり、

「飴なめたい」

 とだだをこねて困らせたりしていた。私は、

「先生が食べてもいいと言ったら、持って来るからね。我慢してね」

 と言い含めていた。

 

それが、1週間、2週間と経つうちに、母は話ができなくなり、私や姉が行っても私たちだと認識できているのかどうか定かではなくなり、ついには目をあまり開けなくなってしまった。

去年の9月の入院時にも感じたが、その変化というか、衰退の激しさは、本当に呆然と見守るしかなかった。

 

それでも私の中では、

「もしかしたらまた回復するのではないか、奇跡が起こるのではないか」

 という思いがあって、

「胃瘻を考えた方がいいのかな。療養病院に移るように言われるかな」

 などなど、あれこれと考えを巡らせていたのだ。

 

 

それが・・・・・・・・

 

 

日曜の夜に病院から電話があり、今日の昼間、母の血圧がガクッと下がったと。今は安定しているが、どうも気になる、と。何だか、「胃瘻」を悩んでいた自分がバカみたいだった。もはや、母はそんな段階ではなかったのだ。それでも自分には、まだ母がすぐに逝ってしまうという認識がなかった。あまりになかった、全くなかった・・・・・・

すぐに病院へ行くことをしなかったのである。

 

次の日には仕事の後に病院に寄るつもりでいたし、火曜日は元々休日だったので昼から病院へ行くつもりだった。後から考えたら、どうしてあの電話があった時点で、すぐに病院へ駆けつけなかったのか、と。

 

 

月曜日の朝、仕事へ行く用意をしていたら、まだ病院から電話が入った。母の呼吸があやしい、と。すぐに来てくれと。その後のことはよく覚えていないのだが、姉に電話して、病院に行く準備をして、その時に、

「あの病院、バス便が少ないんだよな~、時間かかるな」

 と思ってから、

「バカだな、私。タクシー呼べばいいじゃん!」

 と。やっぱり普通じゃなかったんだな。

 

それで、あわてて病院へ駆けつけたのだが、私が到着する前に母は息を引き取っていた。まったく、このバカ娘は、親の死に目に会えなかったよ。最後の最後まで親不孝だったな。

 

結局ね、今だから言えるのだが、私は母が危ないと、危篤だと、認めたくなかったんだよね、きっと。それで、現実を受け入れるのがイヤで、母の状態を実際よりもずっと軽く見てしまっていたんだね。でも、後悔してももう遅い。

 

皆さんも気を付けてね。またまた元気になるなら、それはそれでいいこと。とりあえず病院から電話があったら、私のようにアホな怠慢はせず、すぐに駆けつけましょう。

私もどんなに後悔しても、後悔しきれない。

 

 

今はまだ、悲しみや寂しさはあまりわいてこない。実感がわかないというのが正直なところだ。
病院で見た母の死に顔は、本当によく見るいつもの寝顔だった。
「お母さん」
 と呼びかけたら今にも目を開きそうで、寝息まで聞こえてきそうだった。
 
特養の母の部屋に行ったら、車イス姿の母が今にも現れそうな気がして仕方がない。

 

 

これから葬儀や49日、初盆に彼岸、一周忌と、あわただしい日が続くだろう。こんな時に限って通信制大学始めちゃうしな~、このおばさんは。でも、しょうがないよね、こればっかりは。

 

私の中では、母はまだまだ、これから2年、3年と元気でいるはず・・・・だったのだ。

 

これで一応、私の介護生活は一区切りつくわけだが、まだまだ介護話も書かせていただきたいので、しばらくはこのまま、介護カテに居させてもらおうかな、と思っています。

 

 

ぐうたらで、いいかげんで、ずぼらで、うっかり者で、そんな私が喪主だよ・・・・困ったもんだね。

 

つつがなく母を無事に送れるといいのだけど。

今はそれだけを願っています。




 

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