2019年7月27日土曜日

ケチなヤツほど変なところで損をする・・・・ような気がする


 
 
 
今、レックス家ではエアコンの購入を検討している。現在ウチには2台のエアコンがある。1台はキッチン、あと1台は居間兼客間(のようなもの・・・・まともな部屋はここしかないので、我がボロ家は)。レックス寝室には、ない。扇風機でがんばっている。

 

けどまあ、何しろ住んでいるのがレックス一人なので、本来はこれで十分なのだが(昼間暑い時はパソ持って居間に引っ越すし、熱帯夜には居間に布団しいて寝ればいいだけだからさ、めったに客なんて来ないし)、しかし何かと厄介な用事が出現するのがこの浮世というもの。

 

そう、今年は新盆。ウチに坊さんがやって来るのだよ、お経をあげにね。あげる場所は当然仏壇の前。レックス家の仏間にはエアコンが無いのだ。いや、正確には大昔に買ったエアコンがあるのだが、壊れていて全く涼しくないのだな、これが。

何しろいつ買ったのかも思い出せないほどの骨董品エアコンなもので(下手すりゃ博物館行きの代物)、修理などもってのほかである。買った方が安い。ってか、部品がない。

元来が呑気でいいかげんなレックス、
「ま、いっか~」
 とそのままにしてあったのだが、まさか、坊さんに、


「この部屋のエアコン壊れているから、扇風機でがまんして

 というわけにもいくまい。いや、それで済むならそうしたいけど。

 

というわけでエアコン購入を迫られているレックス、これが中々どれを買ったらよいものやら、迷いに迷っているのだ。優柔不断なせいもあるのだが、一番のネックはアタシのケチな性格。なるべく安くてお買い得なエアコンを買いたい!! とあれこれチラシに載っているお買い得品を物色しているのだけれど、見ているうちにどれも同じに見えてきたり。逆にあっちが良いなと思っても、でもこの部分はこっちの方が、と他に目がいったり。

 

損をしたくない!!」



 というせこい根性がそうさせているのだが、しかし人間、因果なもので、案外ケチな人ってあれこれせこい計算したあげく、結局おかしなところでヘマを踏む、ということが多いものだ。

 

かく言うアタシもその例にもれず、最近ガラケイからスマホにしたのだが、それも営業のお兄さんの、

「今、キャンペーン中!! 今がチャンス!!」

 という言葉についふらふらと契約してしまった。ところがどっこい、後でよくよく考えてみたら、

「う~ん、別の格安スマホの方が得だったな、これなら・・・・・」
 なんだな、これが。

 ケチなヤツあるあるな話である。

 

お盆までに工事が間に合わないと困るし、今月中にどれにするか決めなくちゃ!! と心は焦るのだが、はてさて、どうなることか。

 

それにしても、どうもアタシは坊さんが、特にウチの菩提寺の坊主が苦手ですよ。供養なんて、一番は心なのにね。お寺との付き合いが頭痛の種のレックスなのさ。
 
 
 

2019年7月15日月曜日

オヤジってどーしてしょうもないジョーダン言いたがるのかな・・・・


 
 
 
おばさんパートばかりの我が職場に、「新入社員研修」とかで10数名のフレッシュ・マン&ウーマンが配属されてきた。1週間ほどここで仕事を見学&実践するらしい。

「ここはさぁ~、こうやって、だからこうなるんだよ!」

「え~、でもぉ~、○○さんはぁ、こうやった方がいいって」

「え~、オレはこっちの方が断然わかりやすいって思うよ」

「そっかぁ~」

 

きゃいきゃい!

 

とまあ、仕事なんだかコンパなんだか分からない楽しげな会話を見聞きしていると、

「う~ん、自分にもこんな頃があったのかなぁ~(思いっきり遠い目)」

 なのである。

 

もっともレックス、若い頃もこうした「きゃいきゃい」体験はナッシングだ。そもそも「きゃいきゃいキャラ」じゃなかったしな。それでもやっぱり若い頃というのはそれなりに心躍ることもあるわけで。そう、言ってみれば人生で色彩豊かな時期。少なくとも今とは違う。ま、20の頃から今と同じじゃ怖いけど・・・・・

 

ディスコなんかで踊っていた頃が懐かしい・・・・って、今の若い人はディスコ知らないだろーなー。そーゆーのがあったのよ、昔ね。それはともかく。

 

それでね、レックス、つくづく思うんですよ。

 

「どうしてオヤジって、しょーもないジョーダンを言いたがるの!?」

 

 言葉を聞いてからしばし考え、しかるのち、

「あ、これってもしかして笑う所か?!」

 というジョーダンをよくかましてくれる気がするよ、おじさんって。まあ、これはもしかしたらおばさんもそうなのかもしれないけど。ただ、「はたしてこれは笑っていいのかどうなのか」と悩むジョーダンは圧倒的におじさんが多い(当社比)。

 

今回の新入社員研修でも、例の正社員オヤジ曰く、

「ウチの息子と同じだ~、なんて言わないでくださいよ!(笑い)」

 パート全員「・・・・・・・・・・

 

続いて、

「(新入社員に)イケメンが居ても、そっちの方ばかり見るのは止めて下さいよ~、仕事をしっかりやってくださいね~(笑い)」

 パート全員・・・・省略

 

これって、もしかして笑いを取ろうと思って言った!? と考えないと分からない妙なジョーダンを言うんだよなぁ。

別に、無理してジョーダン言う必要、無いと思うんだけどね。レックス、ジョーダンなんて言わないよ。そりゃ、言いたいときは言うけど。

なんか、無理して場を和ませよう、面白いこと言わなきゃ、と思って言っている気がして。「面白い」必要なんてないよね。面白くない人間がいたっていいし、ジョーダン言わなきゃいけないなんてこともないし。

 

これもパートの皆さんと少しでも精神的距離を縮めたいという切なるおじさんの願いの表れなのか、と解釈することにしている。

 

それにしても、笑えねぇ。

 

(あるパートさんなんか、「息子だなんて、言わないでよね~、こっちは少しでも若くいたいのに!」って言ってた。確かに息子の年には違いないんだけどね、女心ってヤツですな)


 

2019年7月7日日曜日

何だか私だけ任される仕事の種類が少ないんだけど・・・・・・・


 
 
 
最近、我が家のパソがガリガリとやたら不穏な音を立てており、

「もしや、ぶっ壊れるのじゃ・・・・・」

 と非常に不安な毎日を送っているレックスです。今壊れるとマジで困る。通信制大学というのはパソが必須アイテム。金を払ってしまった以上、予定期間はバッチリ勉強したいし(卒業する気はナッシング、っつーか、できまへん、今すでにこの段階で)、新しいパソを買う金はない。

 

昨日、友達と会ったので、帰りにちょっと「ビッグ・カメラ」をのぞいてみたのだが、いや~、高いね、新しいパソは。とてもじゃないが、手が出ない。と言って基本アナログなこのアタシに格安パソを買ってカスタマイズする能力なぞナッシング。そんなことをしたひには、下手すりゃ金をドブに捨てかねない。

 

ったく、金も脳みそも足りないヤツは困ることよ。

 

それはともかく。

 

レックスの職場では、私らパートに任されている仕事は大きく分けると3種類ある。さらに細かく分けると8種類になるのだが、それらを全て、平等に皆がやる、わけではない。例えば、Aさんは13はやるが4はやらないとか、Cさんは主に256をやるとか、人によって頼まれる仕事に偏りがある。

 

誰に何を振るのか、その基準は正直なところよく分からない。あの人は入力が得意だからこの仕事を、とか社員には社員なりの選定基準があるのだろうが、ハッキリと決まっているわけではない。レックス的には、何となく「見た感じ」で決めている・・・・・感も無きにしも非ず、だ。

 

で、本題。実はレックス、振られる仕事の種類が全パート中、最も少ない4種類だけ。うち3種類は全てのパートがやる仕事なので、個人的に割り振られる仕事は1つだけ。

何となく、

「こいつはトシだから、あれもこれもは覚えられないだろ」

 なんて思われてんじゃねーの感ありあり。

 

レックスの他にも割り振られる仕事の種類が少なかったパートさんが2人いたのだが、その2人もこの間、新しい仕事を教えられていた。ということは、

「残ったのはアタシ1人・・・・・・」

 

別に仕事をたくさん割り振られたいわけではないのだが、何となく「あいつは出来ない」印を押されているようで、心穏やかではない。BBAはひがみっぽいんだよ、覚えておきな>某オヤジ社員。

 

それに、他の皆がどんどん任される仕事の種類が増えていき、1人だけ取り残されるのは不安でもある。

「アタシを居づらくさせる気じゃ・・・・・・」

 とか何とか。BBAは・・・・・以下省略>某オヤジ社員。

これが若い頃ならこんなことあまり考えもせず、単純に、
「アタシ、やらなくていいの?! ラッキー!!」
 ってなもんだったのだが、年を取るにしたがって自分をよけい者にしたいのかしら、とか変な方へ考えが行ってしまう。
もしや、できる仕事の種類が少ないことを理由にリストラ!? なんて、いらん心配も頭をかすめてしまうのだよ。
 
 

かと言って、

「アタシにもあの仕事をさせて下さい!!」

 と声を上げるのもはばかられる。最近、物覚えの悪さと物忘れの良さ(?)は自覚しているので、自分から言っておきながらポカをやらかしでもしたら、エライことである。何しろあのオヤジ社員は退職希望を伝えたパートさんに、辞める前12ヵ月のあいだ皆の嫌がる仕事だけをさせた前歴がある。もしもこのアタシが自分から言い出しながらポカをやったら、何をされるか分かったもんじゃない。

 

気にはなるが、

「あの人はトシだから、新しい仕事を覚えるのは大変だろうから、仕事の種類を少なくして負担を軽くしてあげよう、と考えているんだろう」

 と良い方に考えることにしている(そんなタマじゃないけどな、あのオヤジ)。

まあ、ここは大人しく、そのご好意(?)に甘えておこう。


それにしても、ウチの会社の社員の考えていることは、今一つ納得がいかないというか、分からない。どうも自分たちの見た感じでハナから決めつけているところが感じられるのだ。別に、アタシに限った話ではなくね。
第一、仕事もやらなければ覚えられない。それを最初から、
「この人はできるから、この人に頼む」
 と決めつけて、その人にだけさせる、みたいな。そうするとやらない人との差はどんどん開くのは当たり前で。

それで、
「お前はできない」
 と言われてもね。
 

 

ったく、年を取るといろいろと気を回してしまうことよのう・・・・・。
 
 
 
 

2019年7月3日水曜日

認知症は病気である、という事実に無頓着な人が多過ぎる





この間、たまたまYoutubeを見ていたら、さる大学の教授とかいう方がこんなことをいっていた。

「脳に負荷をかけない生活をしていると、認知症になる」

また、やはり以前、某ブログでブログ主の方が、

「子供に寄りかかって生きている高齢者は呆けやすい。一人で、誰も頼る人がいない人の方がしっかりしている」

 みたいなことをいっていた。

 

それを読んで、レックスは思った。

「今でもこんな偏見を持っている人がいるんだな」

 と。

彼らの考えていることは認知症の患者とその家族の人格を貶めるものだと、私は強く訴えたい。

 

認知症は病気である。その基本中の基本も理解されていないというのは、やはり未だに「呆ける」という言葉がしっかりと刻み込まれているためなのだろうな、と思う。

確かに血管性の認知症を除き、なぜ認知症を発症するのかという点についてはほとんど分かっていない。

しかし、認知症に限らず病気なんてみなそんなものだ、と言えなくもない。例えば癌だって、タバコが悪い、活性酸素が悪さをする、などいろいろ言われてはいるが、しかしタバコを吸う人が全て癌になるわけではない。リスクが高くなる、というぐらいのことしか言えないというのが現実だろう。

 

それに、私はこの人たちに聞きたいのだけれど、例えば癌になった人に対して、

「あんたはタバコを吸ったから癌になったのさ」

 と言うのだろうか。それとも、認知症だったら、

「あんた、頭使ってないから、人に甘えていたから認知症になったんだよ」

 と言ってもいいってか!?

 

もう一度いう。認知症は病気である。確かに「こういうタイプ、こういう条件の人が高リスク」ということはあるだろう。しかしながら、病気である以上、誰でもなる可能性はあるのである。


レックスは母を在宅介護していた時、認知症関係の本を手当たり次第に読んだ。地元の図書館に置いてある認知症関係の本、そのほとんどすべてを読破した、と言ってもいい。私は優秀な介護者というには程遠い人間だったが、この点に関してだけは自分を褒めてやりたいと思っている。

ひとえに「認知症」という病気を理解したいがためだったのだが、そうして読んだ本の中で、最もためになったのが、介護者や患者本人が書いた本だったのである。学者や医者など専門家の書いたものよりも、それは私を元気づけ、私に知恵を与えてくれた。

残念ながら、当時まだ日本では患者本人が書いた本は無かった。しかし、アメリカやオーストラリアでは何冊か書かれており、それらの本を読む限り、著者の皆さんは例外なく頭脳も優秀、仕事も優秀、という方々だったのである。

確かにそうした本を書いた患者さんたちは全ていわゆる若年性アルツハイマーの方々で、ウチの母のように老年性のアルツハイマーの方はいなかった。しかし、少なくともアルツハイマーという病気が「ぼうっとしている」からとか「人に頼っているから」なるといった類のものでないことだけは、確かだと言えるだろう。

中でも、オーストラリアの女性などは国家レベルで頭脳明晰な方であり、発症する前は政府高官の地位にあったのである。それでもかかってしまうことがあるのが、この「アルツハイマー」という病気なのだ。


また、前出の大学教授はこんなことも言っていた。
「認知症になってしまうと自分も悲惨だし、家族も悲惨だ」
 
これに対してもレックスは断固「ノー!」と言いたい。確かに母が認知症になって、レックスは介護離職をした。しかし、それを「不幸」だとも「悲惨」だとも感じたことはないし、今もそう思っていない。

大変なこともあったし、いろいろ苦労したこともあるにはあった。が、母が認知症にならなかったとしても別の大変さや苦労があったかもしれないし、母が認知症になったから、だから私の人生が悲惨になった、なんてことは断じてない。と言うより、
「人の人生、悲惨かどうかなんて勝手に決めるな!」
 である。

それは母には全く周辺症状がなく、例えば徘徊や妄想などに振り回されることが全くなかったから言えるセリフかもしれない。中には夜も昼も無く、介護に振り回されて疲弊されている方もいることだろう。

ただ、レックスが声を大にして言いたいのは、
認知症の家族がいる=不幸、悲惨
 という図式を安易に当てはめないでもらいたい、ということなのだ。母は認知症になってから、どんどん「子供」になっていった。私に遠慮なく甘え、駄々をこね、そして底抜けに無邪気な笑顔で笑った。それはそれで幸せな親子の時間だったのである。

認知症の患者はとんでもないお荷物で、その家族は悲惨な生活を強いられる、といったステレオ・タイプの押し付けは、いたずらに認知症患者の家族を怖がらせるだけだし、同時に認知症患者の人権と家族の人権を踏みにじるものである。

私は、声を大にして言いたい。
「親が認知症になったからと言って恐れることはない。ちゃんと正面から受け止めて、真直ぐに見つめればいいだけだよ。もし、自分の手に余ることがあったら、その都度専門家の力を借りよう。どんどん周りの力を借りよう。決して先回りしていたずらに心配することはないんだよ」


最後にもう一度、いう。認知症は病気なのだ。それをどうか、忘れないでほしい。