私はマンガはほとんど読まないのだが、この間めずらしく一冊のマンガを手に取った。「大家さんと僕」という本で、売れないお笑い芸人さんと元いいとこのお嬢様であろう浮世離れした大家さんとの、ほのぼのとした交流を描いたものである。それを読んで、昔デパートで働いていた時のことを思い出した。
時は今から20年以上前、私は日本橋の某老舗デパートで、短期のパートをしたことがある。それは歳末商戦の金券売場での接客で、贈答用の商品券などを売っていた。
日本橋という場所柄か、老舗という貫禄からか、そこには時折、「元上流階級のお嬢様」といった風情の高齢の女性が、お客様として現れたのだった。
彼女たちには共通した特徴があった。まず、カウンターに居並ぶ私たち店員の前に立つと、
「よろしくお願い致します」
と、実に丁寧に頭を下げられる。そこには、「オレたちは客だぞ!」といった上から目線は微塵もない。さもあろう、たとえ親子・夫婦の間であっても敬語で会話されているような日常生活を長い間送られているのだ。しかも、行儀作法はDNAレベルで叩き込まれている方々である。ぞんざいな口調や横柄な態度など、「やれ!」と言われてもできないのだ。
そして優雅に椅子にお座りになると、おもむろにメガネ、手帳やメモ、ペン、などといったものを取り出し、一つ一つゆっくりと、テーブルの所定の場所にセットされる。送り先の住所などを伝票に書きだすまでが、非常に長い。さもあろう、セコセコと急いだり、バタバタとあわてたり、といった経験はおそらく皆無な方々である。丁寧な所作しか、しようがないのだ。
それから住所やのしの上書きなどを書かれるのだが、どなたも字はとことん上手い。ただし、そのスピードは限りなく遅い。そのゆっくりとした筆跡を目でたどっていると、悠久の時の流れを感じずにはいられない。そこだけ別の空気が流れているようである。
「ああ、この方々は私たちとは異次元の時間軸、空間軸で生きておられるのだなぁ」
と感じ入った。
ことが済むと、ゆっくりとイスから立ち上がり、
「どうも、お世話様でございました」
とまた丁寧に頭を下げて、いそいそと次の目的地に向かわれるのが常だった。
こうして自らデパートまで足を運ぶと言うことは、昔の(もっと正確に言えば戦前の)生活から思えば、いわゆる「落ちて」いるのだろう。しかし、彼女たちはそんなことにはおかまいなく、どの方も本当に嬉しそうに、いそいそとやって来ては、いそいそと去って行かれる。さもあろう、自分の家にいくら金があったところで、彼女たちの若い頃には金の顔などろくろく拝む機会などなかったに違いない。金があろうがなかろうが、知ったことではないのである。こうして自分で自由にデパートに出かけることができる生活が、楽しくて仕方ないのだろう。
ある時、そんな一人の元お嬢様が、バッグの中から紙切れを取り出し、
「(金券を送る)リストをね、作ってまいりましたのよ!」
と嬉しそうに私に言い、うふふと笑いかけてきた。こちらも、どうリアクションしてよいものやら分からなかったので、
「さようでございますか」
と言ってホホホと笑った。彼女たちに接している時は、一時自分が別の世界にトリップしているような気がした。
しかしながら、こんな彼女たちの時間軸・空間軸と、現代の時間軸がぶつかった時は最悪である。一人の元お嬢様が例によってゆっくりと丁寧に伝票に記入されている間に、後ろにズラリと待っている人の列が出来てしまった。元お嬢様は、後ろを振り返って、
「あら、あら、急がなくては」
とつぶやき、再び書き出したのだが、どこをどう急いでいるのか全く我々には認識できなかった。つまり、スピードが変わらないってことだけど。
特に、元お嬢様の次に控えていたのが、いかにも「企業戦士!」と言わんばかりの中年の男性だったからたまらない。おそらく、
「今なら昼間だから人も少ないだろう」
と思って、忙しい仕事の合間を縫ってここにやってきたのだろう。ところが来てみたら恐ろしく待たされている。彼の頭から湯気が上がっているのは、私の目にもハッキリと分かった。
それでもどうにか元お嬢様は書き終え、ゆったりと立ち上がると、
「どうも、お待たせいたしました」
と、丁寧に頭を下げた。その間、イスの前に立っていたので、くだんの企業戦士は座ることが出来ない。ということは、そう、その挨拶の間、必然的に彼はさらに待たされる、という状況に陥ってしまったのである。
「謝っている暇があったら、さっさとどけ!」
と彼の目がわめいている。私は、彼が元お嬢様を突き飛ばしてしまうのではと、ハラハラした。
しかし、その元お嬢様は自分の周りでそんな修羅場が演じられているとは露ほども知らぬ顔で、のんびりと次なる目的地へと向かっていったのである。さもあろう、生まれてこの方何十年、「頭から湯気を出す」などという経験はしたことがないのだ。企業戦士のいら立ちを理解しろ、と言う方が無理である。
彼女たちが訪れるたび、私はそこに流れる独特のゆったりとした空気に、心地よく身をまかせた。しかしながら、おそらく彼女たちのご子息・ご息女らは、もはやこのような時間軸・空間軸で生きてはいられないだろう。現代社会の流れを、否応なく受け入れねばなるまい。「絶滅危惧種」のような方々だった。
そうそう、彼女たちのもう1つの共通した特徴として、皆さんおしなべて真珠のイヤリングをされている、というのがあった。それは、おしゃれとか、むろん見栄とかではなく、身だしなみとしてつけている、という感じがした。あたかも、彼女たちの透き通った白い肌の一部のであるかのように、真珠は耳元で控えめな輝きを放っていたのである。
「ああ、いいなぁ、私もおばあさんになったら、こんなふうに真珠のイヤリングをしてみたい」
ミーハーな私は心の底からあこがれたのだが、残念なことに私の耳はきわめて耳たぶが小さい。イヤリングにとことん向かない耳なのだ。
「よし!」
私は耳にピアスの穴をあけることにしたのである。
今、私は真珠のピアスを4個、持っている。むろん、私のピアス姿は彼女たちの足元に遠く及ばないことを知っているし、私が某老舗デパートへ行って、
「よろしくお願い致します」
と言うことは、金輪際無いだろう。
しかし、私は、彼女たちと出会うことができたというだけで、この仕事をしたかいがあったと思っているのである。
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